富士市の富士山かぐや姫ミュージアムに第57回企画展「東海の軍を発す―伝法 東平1号墳とヒミツの武器」を観に行ってきました
以前にイベとぴで紹介したこちらの企画展です。
気になっていたのですがなかなか足が運べず、せっかく行っても記事に上げるのに時間がかかってしまいました。
ヒミツの武器!
結論から伝えますとこれです。
綺麗すぎる? レプリカですからw
ヒミツの武器???
意味不明ですよね。
これが一目で何であるかわかる人は凄いです、よほどお詳しいのでしょう。
こちらは丁字形利器と呼ばれるもののようです。
よく見るとリーフにもその姿が載っていましたが、まさかこちらが今回の目玉であったとは夢にも思いませんでした。
この丁字形利器が〝ヒミツの武器〟なのだそうです。
これは手に持つことが出来るレプリカですが、思わず手にして構えて振り回してみましたよ。
もちろん周囲に誰もいなかったからw
武器?
一目見てそう感じてしまうほどの違和感しかありませんでした。
こちらが発掘された現物ですね。形はレプリカそのままです(当たり前
どうやら丁字形利器は中国や高句麗などで主にみられる枘穴鉄斧(ほぞあなてっぷ)、つまり斧鉞を原型として7世紀中頃あたりに倭国内で製造されたものとのこと。
斧鉞ということは柄を付けて馬上で振り回すのか、と思うのですがピンときません。
斧鉞と呼ぶにはあまりに華奢すぎます。
斧鉞はどちらかと言えばその重さと力でたたき割る武器なので、このような丁字形利器が戦の場で高い殺傷能力を有していたとは考えられません。
実際、武器として有用であればもっと全国的にたくさん出土されているはずですが、丁字形利器は今のところ全国でも4例しか発見されていないとのことです。
その一つがここ富士市であり、もう一つは沼津であったりします。
斧鉞は古代中国において軍事統率権や刑罰執行権を象徴する儀器
斧鉞は古代中国において軍事統率権や刑罰執行権を象徴する儀器としての側面もあったようです。
そのため軍の統率者が権威をかざすための象徴としてこの丁字形利器を利用していたのではないかということです。
この辺は憶測ですね。
そもそも丁字形利器を斧鉞とせず利器と名付けていることからも研究者も疑問を残し明確にそう思ってはいないということでしょう。
もっと別の何かを象徴しているとも考えられないわけでは無さそうです。
ただ、剣や弓などの武器と一緒に発掘されているので自然の流れとして武器として分類しているのかな?
これを所有していた墳墓の主の一族はこの博物館のある富士市周辺を統率して奈良時代の富士郡の郡領事族へと成長を遂げたとなっています。
そしてその巨大な力の要となっていたのが高句麗から来た渡来人たちであり、この丁字形利器は彼らを統率するために必要なものだったと。
大陸側の時代的背景
丁字形利器の納められていた東平1号墳は7世紀初頭に築かれたものです。
6世紀から7世紀頃の朝鮮半島では覇権を争う高句麗、百済、新羅と任那日本府がありました。
高句麗は満州から現在の北朝鮮の地域を支配していた国です。隋の軍隊を退けるほどの軍事力を有する強大な国でした。
百済は半島の西側に位置する国で隣接する任那日本府とわりと良好な関係にあった国です。
まあ、高句麗、新羅との戦が絶えなかったので、倭国の力を利用したかったのだと思いますが。
その任那日本府は半島の南端にあった倭国の飛び地ですね。前方後円墳が見つかっている地域もその一部です。
その二国に挟まれていたのが新羅です。立地的にちょっと辛いです。
打開策として新羅は唐の手を借りることにしました。
唐にしてみると高句麗を倒したい、倭国と友好関係の百済も面白くない、と利害が一致しました。
こうして朝鮮半島は唐の力を得た新羅によって平定されるのですが、いかにせん強国の唐の力を借りた手前、格下の新羅はその代償として強力な朝貢冊封体制に置かれます。
朝鮮半島を我が物とした新羅でしたが、結局のところ唐に上手いこと踊らされて半島ごと冊封体制下に飲み込まれただけでした。
この後、新羅は唐を裏切り一時的に半島の支配権を得るものの、結局は崩壊して高麗国が誕生したりしますが、朝貢冊封体制下からは抜け出せずに近代を迎えることになります。
が、それはまた別の話。
高句麗は新羅によって滅ぼされましたが、高句麗の遺民は北に逃れ渤海が建国されます。
渤海は「海東の盛国」と呼ばれるほどの国となり、倭国と交流が盛んであったそうです。
丁字形利器と渡来人
これらの半島の歴史を考えると高句麗あるいは渤海あたりから海を渡って倭国にたどり着いた一族がそれなりに多いことも納得できます。
ただ大和政権は百済との関係が濃密でしたので中央では百済系の勢いが強かったのではないでしょうか。
また4世紀には半島で倭国と高句麗は戦っていますので高句麗人への心証はあまり良く無さそうです。そしていつの時代も派閥争いが絶えなかったことは想像するまでもないことです。
もともと縄文時代には東北地方日本海沿岸部が栄えていたわけで、こちらからの大陸ルートは存在していたと考えられています。
。
この時代においてもそれなりの勢力があり、渡来人を受け入れていたのかもしれません。
そう考えると中央の支配権の弱い東日本に高句麗系が暮らしていた可能性は否定できません。その中に高句麗の兵士たちもまた一緒にいたのでしょう。
先にも記したように高句麗の兵士は隋との戦闘に負けなかったほどの強兵であったようです。
その強さの秘密は高句麗の騎馬軍団です。4世紀に攻め込んだ大和朝廷も痛い目を見ています。
この地域の古墳からはたくさん馬具が発掘されていますが、それはこの地に騎馬軍団が存在していたことを意味し、その陰に高句麗騎馬軍団の存在があったのだと云うことでしょう。だからこそ東海軍の騎馬軍団は強く、中央からも当てにされているくらいであったとのことです。
その高句麗系の兵力をまとめる意味でも丁字形利器が権力の象徴として役に立っていたというわけです。
斧鉞は古代中国において軍事統率権や刑罰執行権を象徴する儀器ですから高句麗人にも同じ感覚で扱われていたのでしょう、と。
丁字形利器を観てきて
まあ、このような紹介から考えても丁字形利器はやっぱり武器ではなくて象徴的な儀器として用いられていたと結論づけられていますね。
そうすると武器として紹介するのはちょっと違うのでは?w
今回はヒミツの武器という文句が琴線に触れて思わず足を運んで確かめたのですが、事前に浮かんだイメージと違っていて消化不良を起こしてしまいました。
この記事ももっと早くまとめたかったのですが、どうにもやる気が出なくて。
そのせいか内容も尻窄みになっているような……
気にしない気にしないw
しかし今回はじめて丁字形利器という存在を知ることが出来たのは良かったかと思います。
ただこれ、本当に武器なのでしょうか?
現在まだ利用方法が解明されていない何かに用いるための道具の可能性もあるのではないかと疑ってしまいます。
とりあえず武器ではないぞ!――と思わずにはいられませんでした。
展示自体は他の地域の古墳からの発掘品も結構な量が並べられており、この駿河の歴史を知るのに面白くなかなか見応えのある内容でした。
こちらの富士山かぐや姫ミュージアムは普段からも常設展示を無料で公開していますので、富士市付近の歴史に興味のある方は足を運んでみるといいかもしれません。
富士山かぐや姫ミュージアム(富士市立博物館)の駐車場などの基本情報
地図
近隣からのアクセスと駐車場
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下道に降りてすぐの信号機を右折し、次の信号機のある広見公園入り口交差点を左折。正面、道がYの字になりますが、その間が駐車場になります。
空いていない場合は左のみとを入りますとすぐに左側に駐車場があります。その先にもあります。
駐車料金は無料
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開館時間
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祝日の翌日
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